焼尻島の旅(焼尻島訪問編)

 令和2年9月18日、焼尻島、天売島へ向かうために札幌を出発した。日本の有人離島、全島訪問企画の記念すべき第1回目である。これから400を超える離島が待ち構えているわけだが諦めずに訪問していきたい。

 札幌駅に着いたときは雨であった。学生、会社員、主婦などでごった返す札幌駅はいつもならば鬱陶しく思うところだが、これから向かおうとする先の状況を思い浮かべると貴重なものであるように感じられた。留萌へ向かうバス乗り場にも多少の人だかりができていて心強かった。バスに乗り込んでカメラを弄っていると、16時10分、1日1往復のみ走っている、増毛経由留萌行きの特急はぼろ号は札幌駅のバスターミナルを発車した。

はぼろ号の時刻表は紙であった

 バスは乗降場を離れたものの前に別のバスがつっかえていて中々前に進まない。信号は公平性を維持するためにバスを優先させてくれないのだ。いよいよ建物の外に出ると雨は止んでいた。

札幌駅の北側に居並ぶビル群
札幌駅の様子

 バスは創成川通りを進んだ。多すぎる信号のためにバスはしばしば止められたが、乗用車を見下ろしながら進むので普段と全く異なった風景が展開してゆく。幸いにも辺りの人間は私に無関心らしい。窓側の席に座った私は通路側にリュックを置いて精神的な個室を作って風景を眺めることにした。

屯田と太平を分かつポプラ並木

 去り行く街並みを眺めていると快い後悔が去来した。私は否応なく留萌に連れてゆかれる。そればかりか今日の宿はない。未来が私の手を半ば離れて作り出される瞬間を経験しているのである。

茨戸川を渡ったあたり

 茨戸川を渡って石狩市に入ると急に街並みは途切れて畑が広がる。道路は都会の名残を引きずって二車線で整備されているが風景の折り合いが余りにも悪い。近年盛んに建設されているバイパスは、道路の持つ風景への役割を全く考慮しせず作られているようで全く居心地の悪いものだ。さて、遠く小樽や手稲の山々は次第に太陽に照らされてきており私は夕日への期待を膨らませた。

石狩市の道路は高速のインターチェンジのようだ
風車はこのほかにも日本海沿いに立ち並ぶ

 石狩新港周辺は工業団地となっており相当に栄えているようだ。しかし港の持つ活気とも言うべきものは港湾施設が近代化されすぎているせいか全く感じられなかったばかりか人の気がない。

農村地帯

 石狩川を渡ると本格的な農村地帯となり道路も片側一車線の狭い道となった。どうやら路面の状態もそれほど良くはないらしい。小刻みな揺れが断続的に全身を刺激する。

遠くの山山

 しばらくすると車窓に海が広がった。初めは丘陵の延長に過ぎなかった海も、次第に海の実態を伴って姿を現し始めたことを感じた。

幻想的な雲

 海が見えるようになると同時に空には雲が切れ目を作るようになった。

望来の辺り

 私はもう既に車窓の虜になっていた。もしくは風景の中を急速に進む存在と化していた。バスの乗客は誰しもが日本海に沈む夕日を拝みたかったことだろう。そのようなことを感じさせる息遣いがバスを異様な雰囲気の中に陥れたのである。

夕日

 望来を過ぎると海沿いをひたすら走るようになる。そして防風柵のない区間では常にバスの窓全体に西日が差した。私はもはや感動で太陽のことしか考えられなくなっていた。水平線に沈む太陽を見るのは初めてのことだったのだ。かつて家族と青森の深浦に行った際には水平線に雲が立ち込めており太陽は霞んでいつの間にか消えてしまっていた。遠く浮かんでいる、陸に達することなく彷徨う雲はまるで新たな大陸が出現したかの如く輝かしい姿をしているが、あの雲たちは自ら太陽を画してしまった瞬間自らの美しさを失ってしまうのだ。

雄冬岬方面
厚田を過ぎたあたり
眼下に海岸線が迫る

 私はどれくらいの時間車窓にくぎ付けになっていたのか分からない。ただ刻々と太陽が沈むさまのすべてを見なければならないという強迫観念を持っていたことは確かだ。さて厚田を過ぎたあたりだっただろうか、ふと波の音が聞こえていることに気づいた。見ると擁壁に波が打ち付けているではないか。どこか海の上を走っているような気分になった。窓の外に存在する虚像に、精神の上で体験している実像を見出してバスという空間の特異性について想ったのもこの時であった。

浜益が近い

 濃昼を過ぎると急に山がちになり、またトンネルが多くなったので夕日を眺めるという至上命題が遂行できなくなった。その時には雲が少し出始めていたので私も日没を拝むことを諦めかけていたのだが、浜益まであと5分というところ—急に田んぼが現れ海岸に向かって高度を落としてゆくところなのだが—前方に半分にかけた太陽が現れた。バスの前方の窓越しのことだったので写真を撮ることは難しく、沈みゆく先が果たして水平線だったのか断言しかねるが、扁平になった太陽が確実な動きをもって沈んでいっていたのである。わが目に焼き付けた太陽は今でも時折脳裡によぎる。普段の日没の際なども脳が補正してあたかも水平線に沈んでいるかのようにありふれた日没を補正してくれるのである。

浜益のとある民家
浜益川を渡る
宵の始まり

 浜益では私の前に座っていた女性客が降りて行った。バス停では家族が待っていたらしい。彼女も夕日の写真を撮っていたので奇妙なシンパシーを感じており、途中で降りてしまったことがひどく残念に感じられた。

 日が沈んでもなお波は擁壁に打ち付け波の音ばかりは以前と変わらず微かに響いたが、街灯と対向車、そして時折の民家の灯りの世界の住人となった私は外界に想いを馳せつつまどろんだ。

酷い写真で申し訳ない

 浜益を過ぎたのち、時の流れは意識の外にあったわけだが増毛が近づいてふと時計を見やると既に6時を回っていた。さすがに増毛が近づくと街並みが現れて少々安堵した。増毛では乗客の半分ほどが降りて行ったので空気が少し澄んだような気がした。

 増毛を過ぎると留萌までは30分ほどである。日本海は宵闇に包まれて灯り一つない。ただそういった純粋な闇を窓に投影されるバスの車内、更には自分の顔と共に眺めていると、次第に闇に包まれた世界が浮かび上がってきた。それはやはり海上を彷徨うバスの姿であるのだが、そうした空想はいつしか実体験として耄碌したころに思い出されるのだろうか。超現実主義的な紛れのない現実を一方では体感していたのであった。

 留萌の市街に入ると再びバスのアナウンスと共に実際の現実に引き戻された。留萌十字街のバス停はすぐそばまで迫っていた。バスから降りたくなかったが降りねばなるまい。バスは町の入り口の十字路を過ぎるとすぐに停車し私を降ろそうとした。ただ一回停まってしまうと決心はつくのである。泥棒でもするように料金を払ってバスから逃げ降りたのである。留萌の町は期待していたほど寒くはなかった。夏の名残が道路を行き来している。バスを見送った後、羽幌行きのバスに乗り換えるためコインランドリーに照らされた反対側のバス停へと移った。

 程なくして大型バスがやってきた。私は感傷的な旅を期待していたのだが車内は高校生で満載されていた。留萌市内で降りるものもいたが多くは小平や苫前までの乗車であった。車内には青春の空気が充満している。半年前まで高校生であった私は彼らとの関係性について悩んだ。私はいつから大学生になったのだろう。

走り去るバス

 羽幌まで乗る高校生は居らず苫前を過ぎると夜の静寂が車内を覆うようになった。いずれ彼らも夜のとばりに消えゆくバスの灯りの寂しさをひしひしと感じるようになるのだろう。青春の感触に黄昏ながらしばし旧国鉄羽幌駅周辺を歩く。

ピンボケ

 羽幌のバスターミナルは町のはずれにあるので町の中心までは少々歩かなければならない。ターミナル周辺は住宅街であるがしばらく西に行くと郷土資料館や学校のある区画に出る。さらに西に行くと国道にぶつかる。羽幌町のメインストリートだ。私は無性に海が見たくなったのと遠くに天売と焼尻の島影を確認したかったので砂浜のある辺りまで歩いてゆくことにした。国道を過ぎるとみるみる家の灯りが少なくなって終いには南北に流れる銀河が現れた。銀河を見るのは私がちょうど小学3年生だったころ、3月11日の底冷えのする寒さの夜以来だったのではないか。海岸に近づくほど鮮明になる銀河の姿は私を海へと誘った。海岸段丘の縁からは飛沫の混じった海風が吹き上げてきたが、なおも大海原への誘惑を感じたのである。私は不気味に思えてきたので羽幌港へと移動することにした。

奥に見えるのがフェリーターミナル

 港の近くではカラオケの声が微かに聞こえてくる以外、全く人の面影は感じれらず、無機質な波の上下に船が怪しく軋むばかりであった。

ピンボケ
おろろん2

 フェリーターミナルには車が並んでいたが人影はない。明日乗船するおろろん2がオレンジの街灯に照らされている。

休む鴎

 鴎が海に浮かんでいる姿は面白かったのでいつまでも見ていたかったが、そろそろ疲れてきたので今夜の寝床を探すために街へ戻ることにしよう。

 海沿いは風が吹き荒れていたが少し内陸に入るとぴたりと風は止んだ。それと共に夜空に蒔かれた砂金のごとき星も徐々に姿を消していった。そして面白いことに先ほどまで脳裡を埋め尽くしていた過去や青春に関する想念も姿を消していたのである。

道の駅

 しばらく道の駅の周囲を彷徨っていたが、寝床はバラ園にすることにした。寝袋を取り出して入ってみると少し寒かった。しかししばらくすると徐々に温まって夜空の星もどこか愛おしく感じられるようになった。すぐに寝ようと思ったのだが全く寝られない。窮屈な体勢のせいだろうか、それともざわつくポプラのせいだろうか。仕方なしに財布とカメラを持って羽幌の飲み屋街を散策することにした。

ラーメン屋

 バラ園の裏を流れる川を渡るとすぐ羽幌の中心街に出る。上の写真のラーメン屋はどうやら深夜一時半までやっているようだ。羽幌の飲み屋は閑古鳥が鳴く状態かと思っていたのだが、全くそんなことはなく、酔っ払いが大声を出して町を練り歩く健全な様子が繰り広げられていた。どの居酒屋も美味しそうで再訪したときにはぜひ訪れたい。

後日撮ったバラ園
こちらも

 さて、私が寝ようとしていたのは二つ上の写真のドーム型の場所であった。中心の椅子は丸くてとても足を延ばせる状態にない。飲み屋街の散策から帰った後も眠れず、結局眠りに落ちたのは一時ごろであったのだろうか。

翌朝の羽幌港

 令和2年、9月19日の朝は早かった。朝の4時ごろから野宿の都合も考えず散歩する人に起こされたのだ。意識がはっきりしてくるとふくらはぎの激痛が私を襲う。一晩中屈伸していたので全く凝り固まってしまっていた。加えて沿岸特有の潤いのある空気とは言えども9月下旬の朝は肌寒い。

 明るくなると恥ずかしさを感じたのか港へ移動することにしたのだった。しかしどうにもふくらはぎが痛い。私の歩みは頗る遅かった。

防潮堤の突端
フェリーターミナル
早朝のおろろん2

 羽幌港の早朝は昨夜と同じく人影がなかった。土曜日だったので出港する船もない。ただ水面に浮かんでいた鴎の姿がないばかりである。しかし風が余りにも強い。途切れない雲が飛行機のような勢いで流れていく。埠頭の際に立つことを躊躇してしまうほどの強風が体に打ち付ける。特にフェリーターミナルの辺りは吹き曝しになっていたので5分と立っていられない。仕方なしに平日ならば今頃人であふれかえっているだろう市場の玄関に座って出港を待つことにした。現在時刻は5時半、ほとんど読み進めていなかったプルーストの馥郁たるスワンの恋の世界にしばし心を時めかせ、そして悩ませる。

 7時になるとターミナルからサイレンの音がした。出航に対する不安はこれで払拭された。あと3時間後には焼尻島の大地を踏みしめているはずである。ターミナルの中には旅行客が3人ほどいた。皆時間を持て余して普段はそれほど注意を向けないであろうNHKの朝のニュースを無機質な目で眺めている。私は足の痛みが全く止まなかったのでバレリーナのように足を延ばして眠気と戦いつつプルーストを眺めていた。

出港前のおろろん2

 4連休の初日とあって出航の8時20分が近づくとフェリーターミナルの小さな建物は人で埋め尽くされた。体温を測る係員の口やかましい声が次第に耳につくようになる。足の痛みと倦怠感に苛まれていた私は非常な苦痛を感じていた。ふと旅の情緒の崩壊という事態が脳裡によぎる。目的を同じくする者のあまりに多いことに少々失望しながらフェリーへ乗り込む。

甲板の様子

 船内はとても狭く人も多かったため写真を撮ることも憚られた。案内表示はすべて日本語、まさに昭和の趣である。白いペンキに塗られた船体も心なしか積年の乗客の脂でべたべたしていそう。閉塞感と好奇心から船室に籠っていられなくなったので甲板へ出ることにした。

 甲板に出ると大学生くらいの方たちと黄昏た独り者の旅行者ばかりであった。ただ昨日のような哀愁はあまり感じなかった。私は始まり行く1日の到来を祝福した。埠頭では作業員の方数名と犬を連れた母娘が見送りをしている。

ターミナルの様子

 大きな汽笛と共にフェリーは離岸した。眼下を見やると船体の側面に数多くの渦巻きができて船を大海原へと追いやろうとしているのが見える。ついに私は離島へと出発するのだ。この時、現実のあまりの展開の速さと愚鈍な私の脳には急激に乖離が生じていてただはにかむ他なかった。

港との別れ
高速船
苫前方面、サンセットビーチ
灯台

船は速やかに出航したが今朝からの強風で危惧していたほどの揺れはなかった。少々酔いそうではあったが何も食べていないから吐くことはないだろうとたかをくくって甲板に立っていた。

港の外に出る

 防潮堤に囲まれた海域を抜けると船は俄に揺れだした。波の起伏に合わせて足元が消えていくような錯覚を覚えるような揺れだ。海上の風はさほど酷くなく、水平線が見えるほど晴れ渡っていたので大きな揺れには驚いた。もう既に少々酔い始めていたが周りに人がいたので対抗意識を燃やして手すりにしがみ付いていた。しかし突然船は大きな波に襲われる。舳先が少し上を向いたかと思うと一気に船体が海に向けて沈み込んだ。飛沫は船体を伝って後半の中になだれ込む。私は苦笑いしてしまったがそれと同時に酷い吐き気に襲われた。私はとうとう観念してままならぬ足を無理やり進ませて船室へ戻った。船室は絨毯になっていて体を横たえることができたので、すぐさまリュックを枕にして寝ることにした。しかしどうにも寝られない。体は揺れのためにしばしば浮いてしまうし小さい窓には波が打ち付けてくる。更に先ほど被ってしまった海水が体をしきりに冷やす。私はこの旅に出たことを後悔し始めていた。行きだけならばまだしも帰りもこの状態にあると思うと更に気持ち悪さが増大する。船室に取り付けられたテレビの映りも次第に悪くなり異郷の地へと向かっているのだということがひしひしと伝わってくる。しかし揺籃の監獄から脱出する術もなかったのでじっと目を瞑っているしかなかった。

焼尻の港に入港

 私はどうやら眠っていたようだ。猛烈なボイラーの音を押しのけて聞こえてくる焼尻到着の放送で目が覚めた。少し気持ち悪かったが早朝から悩まされていた猛烈なふくらはぎの痛みはもうない。近づく島影を一刻も早く目に焼き付けたいと思ってデッキに出ることにした。

東浜の集落

 幸いなことに焼尻港は外洋から守られているので船はさほど揺れない。しかし小刻みな揺れから解放されたいという望みはますます強くなるばかりである。

階段

 フェリーは昭和の日本人の体形に合わせて作っているらしく狭苦しさを感じる。ペンキを幾重にも塗り重ねてはいるが、隠し切れない経年の錆がそこかしこに伝っている。

 少しの間、外を眺めていたが急に大きな汽笛が鳴った。私の胸も同時に高鳴る。夢にまで見た天国の孤島にいよいよ足を踏み入れるのだ。船は旋回して港に着眼しようとしている。ロープが投げられ作業員が必死に引っ張っている。港では明朗な陽光に包まれる中、島民や駐在さんがこちらをじっと見ている。

 私はいよいよ酔っていたこともあって待ちきれなくなった。それに呼応するかのように羽幌で検温を行っていた男性がタラップを付けて扉を開いた。私は転げ落ちるようにして焼尻島へ上陸したのだった。

焼尻島フェリーターミナル

 乗客の殆どは旅行者だったのでみな船酔いしてしまっていた。羽幌では元気だった人々も青ざめた顔でベンチに伸びてしまっている。私も航海や睡眠不足、栄養不足の疲れがどっと押し寄せてつい寝てしまいそうになったが、生憎一人で寝そべることができるほど太い神経は持ち合わせていない。

中央のにじみは水滴
20分ほどで去っていた

 上陸してしばらくは酔いもあって降りてくる客を眺めていた。時間の流れが不意に遅くなった気がしたが、しかしそれは私の気のせいだったらしい。停泊時間はすぐに終わりいよいよ出航という時になって、ふと我に返った。早く自転車を借りねば。私の他にはソロキャンパー、5人家族、大学生2人組が自転車を借りようとしていた。繁忙期ならば開いているはずの食堂の横に自転車屋はあったのでそこで空気の半ば抜けた、錆びついた自転車を借りる。

 船は天売までの客を乗せて出航していった。あと30分ほどの旅である。今日は焼尻島を探索することにしていて正解だったと心から思った。

天売へ向かう

 港から集落へ向かう坂を登っていると船が見えた。荒い白波をたなびかせつつも船は悠然と前進していく。島の北側は焼尻が屏風の役割をしているからだろうか。

漁船は疎ら

 フェリーが去ると時間の感覚を失ってしまいそうになる静けさが港を覆った。風はなく微かに波の音が響き渡るばかり。時折見かける島民の方々は私などには無関心であったが独特の温かみを感じた。

小田民宿

 今日の宿である小田民宿だったが女将さんの姿はない。荷物を置いてもらいたかったのだが諦めよう。

遠くに羽幌の山並みが見える

 振り返れば日本海。本土の姿は霞んでいて余りにも遠くへ来てしまったのだということを実感させる。照り付ける9月の太陽は優しげだった。

                   続く

投稿者: yonekura53

こんにちは、米倉と申します。海老名鰹だしとも申します。クラシック音楽と旅行好きの大学生です。

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