東大を受けてみた 1

 このお話はノンフィクションです。

 私が大学受験のために東京へ旅立ったのは二月の末のことであった。日差しの降り注ぐ中目覚めたのだった。今から自分の運命が多少なりとも決定付けられてしまうと思うと緊張よりも滑稽さが頭を支配するようになった。

 軽く朝食を摂った後、父の運転する車に乗せられて盛岡駅へ向かったのだ。そのあまりの緊張のなさに旅行に行くかのような錯覚すら覚えた。努力をしてきたとは言い難い高校生活だったがやはり試験が近づくと自然と自信が湧き出てくるものである。東大受験と言えども日常の延長に過ぎない、わずかな時空の揺らぎのようなものだと、今思えば不思議なことだが、考えていたのだ。更に東大入学は必然であるとすら思っていた。

 盛岡駅で私を見送る父の顔はどこか不安げだったが、私はあふれ出る微笑みを抑えることができなかった。稀にみる足取りの軽さ。朝の盛岡の空気はどこか春を感じさせるもので厳冬の締め付けるような峻厳さはない。盛岡駅の中は通勤客で忙しない。その中で悠然と歩みを進める私はどこか特別な存在に思われた。そしてドトールでコーヒーを買うという考えは即座に私の心をとらえた。朝のコーヒーほど典雅さを味わえるものはない。すぐさまコーヒーを買い、少し急ぎ足で改札へと向かう。

 改札をくぐるとき私はかすかに郷愁を感じた。それは微弱な炎であったが新幹線ホームから吹き込んでくる風を浴びながらエスカレーターを登っていくと風にあおられるように郷愁の炎は明るさを増していったのだ。ふと私は下へ降りたくなったがエスカレーターの強制力はそれを許さない。ついに運命の歯車は私の意志から離れてひとりでに回り始めたと見えた。このとき私は本質的に盛岡から引き離されてしまったのだ。

 乗り込む新幹線はやまびこ号であったためすでに入線していた。見送りのないホームに一瞥し新幹線へ乗り込んだ。まずはコーヒーを一口。舌先にわずかに流されたコーヒーは案の定熱かったが、口内で唾液と攪拌され独特の甘みを帯びた。新幹線はそんな感興をそっと包み込むようにひっそりと発車した。

 車窓には見慣れた街並みや田んぼが広がる。そしてその景色は無情にもトンネルによって断ち切られる。郷愁の甘い陶酔が冷めてしまったので英語の過去問を解くことにした。東大の英語は120分である。盛岡から東京までは大体3時間であるのでちょうどよいだろう。分厚い赤本を開いて解いてみるが案の定正答率は半分程度。郡山から隣に乗ってきたサラリーマンにも集中を奪われ宇都宮辺りからはひたすら車窓を眺めていた。遠くの山々を見ていても自分の動きが感じられる。

 大宮辺りまで来るといよいよ東京へ来たのだなという感じが強くなる。快適さと驚異的な速さにより感覚的に東京へ来たのだということは掴めなかったが環境が強引に大都会へと引きずりだしてくれる。そこは空気の汚れた世界。知っている人のいない世界。運命が誘導した世界。

 赤羽を過ぎたあたりに現れるトンネルは東京到着のシンボルである。今回は渋谷に行く関係で上野で下車することにしていた。もう一度トンネルに入ると新幹線はみるみるうちに深く潜り、しばらくすると突如車窓にホームの光が入ってくる。私は新幹線を降りたくなかった。運命が切り開けていく高揚感はあったけれども運命はあくまでも想像上のものであってほしい。未来への期待は何よりも美しいものである。

 いよいよ新幹線は停車してしまい、ドアは開かれた。地下のひんやりとした、それでいて煤けた香りのするホームをエスカレーターに乗って進むとまたもや強烈な風を感じる。都会特有の春の日にどこか澱んだ風だ。地上へ上がるとさすがに盛岡とは違い暖かかった。上野駅の人ごみに新鮮さを覚えながら山手線ホームへ向かう。山手線はお昼時だったけれども席がすべて埋まるくらい混雑していた。お昼時の日差しは2月と言ってもなかなか強く、頭が痛くなってきた。上野から秋葉原へ向かい中央線へ乗り換え代々木へ、そこで再び山手線に乗り換え渋谷へと向かったのだった。

 渋谷駅は大変広くて出口を探すこともままならなかった。有名なスクランブル交差点はコロナ騒ぎにも関わらず人でごった返している。日本人の多様性の粋を見せられているかのようでもある。お昼ご飯は渋谷の天下一品で食べようと前々から決めていた。人ごみを潜り抜けしばらく行くとお店があった。カウンター席へ案内されるとすぐ水が出てきた。私はこってりラーメンと豚キムチを頼んだ。

 水を飲みながら待っていると厨房からバイトの話し声が聞こえてくる。その笑い声にふと涙が出そうになる。はるか遠い地で同じように生きている人がいるのだ、と当然のことながら毎度感じ入る。

 店から出ると幸福な満腹に眠気を感じた。かねてから東京に来たらケバブを食べようと思ていたのでケバブを買い、渋谷駅へ戻る。渋谷駅からは田園都市線で池尻大橋へ向かう。

 池尻は渋谷とは異なり割合静かな町であった。首都高の高架のおかげで日差しも遮られ少し肌寒い。ホテルは駅から500メートルほど、コンビニのすぐ横にまるで長屋のような間口の狭さで通りに面している。支配人の初老の男性は明るく迎えてくれた。部屋は午後の陽光に蒸し返っている。私は堪らず学ランを脱ぎ空調を入れ外へ出た。受験会場の下見である。ホテルを出てすぐ横の通りを左に入る。坂を上ると団地のごとき容貌でアパートが並んでいる。しかし郊外の団地とは異なり広い空はない。坂の上へ上っても一切の眺望はないのだ。アパートを潜り抜けるとちょうど下校する小学生がいた。更に細かい路地を北へ進むと急な坂があって遠くに京王井の頭線の駒場東大駅が見える。いよいよだという感覚がひしひしと湧き上がる。二年前の春休みに一度来た場所。あの時も春の日差しが照り付けていた。住宅街の谷の向こう側に見える山こそ東大であるのだ。

 しばらく進むといよいよ線路が見える。線路に沿った道には疎らな人影があった。その人影の一つはなぜか私に会釈してきた。大学生然とした男である。何やら私のことを受験生と思ったらしい。とてつもない軽蔑を私は心に感じた。あの見下した目つきは何なのだ。決して私はこの時気が立っていたわけではなかった。その男二人組は大学方面へ向かっていたためそののあとを心ならずもつけることになってしまったが、漏れてくる会話は東大に関することばかり。何度も言うが私は決して僻んでなどいなかった。むしろ落ちても堂々としていられるだけの矜持を持ち合わせていた。しかしこの時私には変な意地が生まれていた。なぜか受験生だと思われたくなかったのである。学ランのズボンにワイシャツという明らかに受験生らしい格好だったのだが意地を張ってホテルへ引き返すところを電車に乗って下高井戸方面まで向かおうと思ったのだ。ひょっとすると受験というくだらない遊興に興じている私に嫌気がさしていたのかもしれない。受験期には大学に恋せよなどという無理難題を押し付けられていたが恋心など一切持ち合わせていなかった。

 しかしいったん電車に乗り込んでしまうと徐々に楽しくなってくるものである。頻繁に開くドアから流れ込んでくる空気は徐々に涼しくなってゆく。昼の電車ほど情緒に溢れるものはない。下北沢で降りるつもりが明大前まで乗ってしまった。私はホテルまで簡単に帰れる退路を断ってしまったのだ。私はかねてから東急世田谷線に乗って見たかったので下高井戸まで向かうことにした。しかし来る電車は快速や特急ばかり。じれったくなったので走って向かうことにした。私は夕日に気持ちを追い立てられていたのだ。明日が受験であることなどどうでもよかった。とにかくこの衝動に従って行動するしかない。下高井戸までの道のりは東京の下町という風情で狭い路地を駆け抜けていく疾走感がたまらない。京王線沿いを走ると線路に光る夕日が燐光の連鎖のようだ。時折その上を滑る列車、これもまた光を追いかけているかのようだ。

 下高井戸駅に着くと二両のチンチン電車が停まっていた。まだ改札は行っておらず列車の中には入れない。私はランニングの疲れに息を切らして暗い駅の構内を眺めていた。列車の中に入ると膝が入りきらないほど狭い客席が並んでいた。車内はすぐに人で埋まり列車はゆっくりと発車。前に座った男の子が電車に乗れたことを心底嬉しそうにしている。列車はキーキーと音を立てながら町を縫うようにして進む。自転車と速度に変わりはない。買い物帰りの主婦たちと並走する。

 松陰神社の電停で降りると門前町が広がっていた。総菜屋や土産物屋、食事処が道路の描く弧に沿って並んでいる。人波がどこまでも続いている光景に東京の下町の力を見た。美味しそうな総菜はしかし私の食欲を刺激しない。周囲の人々と私は別人種であるようにすら思われた。下町の光景はひどく感傷を喚起するのだけれどもその景色や暮らす人々に実体を感じられないのだ。

 松陰神社には受験生も数多くいた。一通り参拝を済ませると段々受験生の感覚が蘇り急にホテルへ戻りたくなった。急ぎ足で電停へ戻ったがちょうど電車が出たところ、しばらく待たねばならなかった。五分ほどでやってきた電車は夕方にもかかわらず満員であった。身動きをとるのも難しい。突如都会の現実の厳しさが頭をよぎる。疲れたサラリーマン、化粧の厚い女、どれをとっても私には縁遠い世界である。孤独に身をつまされる生活にぞっとした。

 三軒茶屋につくと満員の乗客は解放されどこかへ消えていった。その時私はパイナップルを食べたいという衝動を感じた。私の喉の渇き、心の渇きは最高潮に達していたのだ。幸い駅には西友がある。西友で大きなパックを二つ買って池尻まで帰った。

 ホテルに着くと旅の疲れが一挙に押し寄せそのまま眠ってしまった。受験前日とは思えない行動だったが眠気とあらば仕方ない。夢のない眠りだった。

 目を覚ますと夜の八時だった。すぐに勉強する気にもなれなかったので昼に買っておいたケバブとパイナップルを食べた。ケバブの肉は固く野菜の水気も失われている。チリソースの辛味ばかりが舌に残る。パイナップルは舌が痒くなってきたので一パックしか食べられない。テレビを点けてみたが私の存在にあまりに無頓着な気がしてすぐに消してしまった。よし、数学をやろう。

 数学の公式は確認してみると意外にも覚えていなかった。直近の模試では八割近く取れたが問題によっては全く解けなくなってしまうので意味がない。ただここ数年の問題を見るにそれほど難しくないので二問は解けるだろうと踏んで自信としていた。国語は古文の助動詞や単語の確認をしたのだろうか。よく覚えていない。

 十一時も周りいよいよシャワーでも浴びようかと思ったその時腕時計を忘れてきてしまったことに気づいた。父からもらったものである。ホテルから出るのは億劫だったが仕方ないので買いに行く。夜風は肌に心地いいかと思ったが。首都高の効果が闇の中どこまでも続き、しかも東京であるにもかかわらず通りに人影が殆どなかったので大変不気味であった。ホテルの周りのコンビニを三軒ほどまわったが腕時計はどこにもなかった。おまけに店員は外国人ばかりである。どうしようかと思っているとある店員が中目黒のドン・キホーテを勧めてくれた。少々離れていたが仕方ないだろう。

 目黒川に沿った道は幻想的である。水面に揺れる街灯を見て夜のまどろみを感じた。ドン・キホーテには十二時近いというのに多くの人がいた。1000円程度の時計を買い足早にホテルへ戻る。帰りに見上げた首都高の大橋ジャンクションは俄には信じがたいほど大きく不気味であった。その曲線の一つ一つが今にものたうち回りそう。

 ホテルに着いたのは十二時を少し回ったところであった。大変喉が渇いていたので伊藤園の濃い緑茶を一気飲みした。すると急に目が覚めてきたのだ。これには非常に焦った。私は眠らなければならぬ。それも深い眠りに。急いで布団に入り電気を消した。しかし全く寝付かれない。それどころか目みるみる冴えてくる。この恐怖が諸君にはわかるだろうか。布団も急に暑く感じられるようになってきた。

 こういう時には音楽だと思った私は校歌である軍艦マーチ、それに続いてラデツキー行進曲をかけてみることにした。信じられない選曲だがいかんせん当時は余りに焦っていた。続いて当時よく聴いていた大澤壽人のピアノ協奏曲第3番、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を聴いてみた。普段ならばどれほど大きな音量で音楽を流していても寝落ちしてしまう私だがこの時ばかりは無駄だった。しかし音楽を止めたところで冷蔵庫の音、電気の音、そして何より静寂の中の張りつめた空気—それは耳をつんざかんばかりのモスキート音となって感覚を刺激するのだ—は止むことはない。そして何よりも寝なければという強迫観念こそ眠気を遠ざからせているのだ。私は徹夜明けの思慮のなさを痛いほど知っていた。だからこそ寝なければならない。寝方を変えてみても、床で寝てみても眠れない、死闘は朝の四時半ほどまで続いたがついに私は勝利したのだった。ただ私はその時絶望の真っただ中にいたことをよく覚えている。ようやく眠気を感じ始めたころ私は泣きたかった。眠れないことが声ほど辛いとは。とにかく私は窓から差し込む青白い薄明かりの中眠ったのだ。

投稿者: yonekura53

こんにちは、米倉と申します。海老名鰹だしとも申します。クラシック音楽と旅行好きの大学生です。

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