札幌へ移住して一か月余り、周遊きっぷを利用して長万部まで行ってみることにしました。朝ごはんは腐りかけたご飯。百円のメカブをかけて流し込みました。

小樽行きの列車は既に札幌駅に入線していました。それもそのはず札幌駅に到着したのは列車が出発する三分前。旅の始まりはいつも心臓に大きな負担をかけるものです。運転士と喋っている男性はどのような立場の人なのでしょう。私にはわかりかねます。

本来ならば快速であればよかったのですが時間の関係で鈍行です。しかし駅間の短さとは裏腹に速度をよく出す。札幌の昭和に急速に発展したらしい町並みを素早く抜き去ります。

久しぶりに見た機関車。札幌市内まで貨物列車が入ってくることはないので貴重な存在です。

銭函駅から小樽市に入ります。それと同時に日本海が車窓に広がります。銭函は磯の香り漂う港町です。

銭函から先は朝里駅までしばらく駅が無いので海岸沿いを飛ばしていきます。途中には張碓駅のあとや海水浴場の跡などもあって見どころの多い区間です。ただ一つ悔やまれるのは窓が大変汚いこと。JR北海道の予算が厳しいことは百も承知だけれどもこれほど景勝の優れている区間が窓の汚さのせいで台無しになってしまっていることはJRとしても大きな損失だと思います。


荒天時に乗ってみたい区間でもあります。

夜になったら漁火が見えるのでしょうか。


小樽駅に着きました。乗客は私を含めて二十人ほど。コロナ禍のせいでしょうか、日曜日の割には乗客が少ないように思います。

売店やパン屋がありました。しかし一大地方都市の中心駅としては少々規模が小さいように感じます。また北海道有数の観光地としての賑わいも残念ながらありませんでした。例年の八月の北海道は外国人で埋め尽くされているはずですからね。

今日の小樽は八月にも関わらずとても過ごしやすい天気。北海道の過ごしやすい夏の神髄を見た気がします。

駅前からまっすぐ海の見える町なんて大変ロマンチックですね。今日はあいにくの曇りでしたがもし晴れならば海が輝いて見えたはずです。

中は坂になっていて海産物が観光地価格で売られています。海産物は魅力的ですが食べるお金が無いので素通りです。(入らなければいいのですがね)



小樽運河で見た観光客は一組だけでした。そのほかは仕事のあるサラリーマンやジョギングをする人ばかり。人力車の車夫も暇を持て余しています。しかしそんな車夫ですら貧乏大学生然としている私には一切声をかけてくれませんでした。



家族連れが運河の端っこの方で写真撮影をしていたのですが私は邪魔者扱いされてしまいました。私一人映り込んだところで写真の構図に大きな影響が出るはずはありません。それどころか寂しそうな若者が映り込むことで哀愁を湛えた曇天の運河を撮影できたはずです。彼らのセンスを疑います。



いい感じの雰囲気ですがどうにも作為的な感じがしてしまいます。ラーメン屋の親父も私が通りがかると顔を背けてしまいました。

かつての栄華すらも全く廃れてしまったかのような寂しさ。しかし現在時刻を思い起こせば朝の九時。どこの店も記念館も美術館もやっていませんでした。

ステンドグラスの一つでも見られるかと期待していましたが何も見えませんでした。

時間も迫っていたので足早に小樽駅へ戻ります。

それでは倶知安へ向かいましょう。例によって列車の発車時刻の2分前に駅へ到着したので汽車を詳しく見ている暇はありません。急いで車内に乗り込むとボックスがすべて埋まるくらいの乗車率だったので、私は一両目の後ろのデッキに立っていることにしました。H100系のデッキは通勤需要も考えてか、とても広く作ってあったので過ごしやすいものではありました。

小樽、余市間の線形は悪いものですが新型車両は意外に速いスピードで走ります。トンネルやカーブが連続する区間なのであまり飽きずに過ごせるのではないのでしょうか。

余市駅では多くの乗客が降りて行ったので私は先頭車両へ移動しました。ニッカウヰスキーの建物が見えないか、少し期待したのですが無駄でした。余市駅のほとんど使われていないヤードが寂寥の感を誘います。


これからはいよいよ山越え。全面展望を楽しむために前へ移動しました。

かつては函館、ひいては本州と札幌を結ぶ大幹線だった函館本線。いまだに長い交換線は撤去されずに特急や急行、貨物列車が行きかっていた往時の姿を偲ぶことができます。しかし悲しいことに時折運転される特急ニセコ号ですら三両編成、小沢から岩内までの線路ももうありません。





新型車両は峠道も電車のような軽快さで進んでいきます。キハ40のような重々しさは微塵も感じられません。また列車の音は正に電車のそれで少々ディーゼルを期待していた私などは拍子抜けしてしまいました。


田舎の駅ながら駅前通りはカフェや定食屋があって一日のんびり過ごせそうです。それからなぜか外人さんがコーヒー屋の隣でバザーをやっていらして、直線的な道路や牧歌的な風景も相俟ってどこかアメリカの片田舎へ来たかのような錯覚すら覚えます。

奥に見える白いTシャツの方は小樽駅から同乗していた鉄道ファンの方。









先ほどの鉄道ファンの方もこちらへ来られていました。力強く歴史を生き抜いてきた先達を見ると自分の浅ましさや脆弱さが感じられて悲しくなりますね。



倶知安町は花の多い街ですね。一般家庭に咲いている花を見てもよく手入れが行き届いて、町が生きているのだということが伝わってきます。そしてここの花々は西洋を意識させるものが多い。開拓してきたという歴史が手に届くところにあるという点でやはり北米や豪州を思い出さずにはいられません。北海道が保守色の強い土地だというのも頷けます。

小川原脩美術館に到着。実は美術館の立っている丘のすぐ下には胆振線の廃線跡があったのですが全くのノーマークでした。


小川原脩は倶知安で生まれ倶知安の絵を描き続けた画家です。初期は印象派風の油絵を描いていたようですが次第に彼自身の境地へと至ります。倶知安の自然の美しさや厳しさはもちろんのこと、そこに生きる動物たちに北海道の人間の生きざまを投影しているような気がします。またアイヌやチベットといったマイノリティーにも着目し、地理的性質に抗えず飲み込まれていく彼らの悲哀と強い生き様を柔らかな筆致で描いた絵は人間の健気さを見事に映し出します。
時間の関係で30分ほどしか滞在できませんでしたが次は木田金次郎美術館などと併せてめぐってみたいものですね。

帰りは走った甲斐もあって15分ほど余裕があったので朝に外人さんが溜まっていた喫茶店でコーヒーを飲みます。本当は暑かったのでレモネードでも飲めばよかったのでしょうが強がって一人ホットコーヒーです。せめてアイスにすればよかったなと後悔しています。


雲が切れないか期待していたのですが無駄でした。列車は無慈悲にも羊蹄山から離れていきます。




ニセコに着きましたが何の感慨もありませんでした。ただ一両編成に詰め込まれた乗客がさらに増えて居心地が悪くなりました。駅では青春を謳歌する高校生が別れを惜しんでいます。つい数か月前目で高校生だったことが俄には信じられない気分です。
オンライン続きの弊害は女性との接点がなくなってしまうことですかね。友達は高校時代の人たちがいるのですが女性だと話は別です。女性ともオンラインでつながればいいのでしょうが、怖くて手が出せていません。女性が男性に与える活力を文部科学省は軽視しすぎですね。




倒壊しそうな小屋。山を越えるとスピードを出すようになります。

どこか東北の山間部の風景が思い出されて懐かしかったです。田んぼの区画がもう少し狭くて非合理的に曲がっていたら完全に岩手の田んぼなのですがね。広い土地があるのにもかかわらずこのような小盆地も開拓したということは明治の食料事情、家計は相当に苦しかったということなのでしょうか。そんな田んぼも今ごろは黄金色の稲穂を輝かせていることでしょうね。



黒松内駅から先は線路が直線的なので列車も脱線せんばかりに飛ばします。乗っててとても気持ちが良い。僅かに開いた窓から流れ込む突風が自然の香りで車内を満たし外界との区別を曖昧にします。



ただただ広いヤードが寂しいですね。今年は東京理科大の一年生も長万部に来ていないようで長万部の財政が心配になります。


駅前道路を見やると海が見えます。これと言って珍しいわけではありませんが太平洋の雄大さは日本海とは異なった趣があるものです。






丸金旅館のお湯は塩分が濃くて体の芯から温まれる類のものでした。ただ温泉がとても熱いので(露天ですら熱い)長風呂はできませんね。また浴室内の湯けむりが物凄くレンズが曇ってしまうので浴室内での写真撮影には向きません。
女将さんは不愛想な方でしたが私の死んだ祖母に似ていて懐かしさのあまり泣きそうになってしまいました。厨房から漂ってくる魚の煮つけの匂いは少年の日によく食べていたナメタガレイの匂いとそっくりで、もう二度と食べられないあの味を舌の上で反芻しながら堪え切れない想いのやり場を探すことに精一杯でした。いつか必ず泊まりに来ます。

もう一度跨線橋の上から眺めた長万部駅は相変わらず物静かでしたが温泉に入って上気した私にはひどく風情のあるものに感じられます。手ぬぐいは足の動きと共に冷めていきました。次に乗る列車は既にホームに入っています。
「道央周遊の旅(H100系に乗車)」への1件のフィードバック