
私の頭の中ではシューマンの詩人の恋の一曲目が絶え間なく流れていた。盛岡から列車に乗っていると初夏の空気がドアの隙間から細く流れてくる。美しい五月には、この言葉が正に似つかわしい日だった、私は物思いに沈んでいた。一年以上にもわたる片思いは彼女からの誕生日プレゼントと共に終わってしまったのだ。つい数週間前、四月生まれのあなたにクッキーを渡したその日、喜びは限りないものだった。しかしつい昨日―それが私の誕生日だったのだ―お返しのプレゼントと共に彼氏がいるのだと告げられたのだ。全く私は馬鹿者である。相手に彼氏がいるとも知らず舞い上がっていたのだから。ただ当時は冷静さを全く失っていたので呆然と家へ帰り(このあたりの記憶は欠落してしまっている)、誕生日祝いのご飯喉を通らなかったのだ。
一人旅は私の心を慰めてくれる。日常のしがらみは一時的に忘れ去られる。
さて二戸駅を颯爽と漕ぎ出し10数キロの道のりを経て天台寺へやってきた。風が吹きすさぶ中の慣れないママチャリでのサイクリングは全く快適でなかったが、時折見上げる空が余りにも碧いことが頼みだった。浄法寺町の中心に近づくと細長い盆地が開け、人家のほかに店も多くなった。ふと昨日の夜からろくにご飯も食べていないことに気づき麓のローソンで朝食をを摂り、寺へ続く坂を登ったのだった。

寺ではあるが神仏習合よろしく登り口から鳥居がある。徒歩の参拝客はここより登ってゆくこととなる。


鳥居の横には桂清水が滾々と湧き出ている。濃紺を垂らしたような水面は絶え間なく揺らめき、浮いている松葉は当てもなく揺れている。

清水は一旦脇の小規模な溜池にて堰き止められる。長方形の池の上には祠がある。桂清水は古来から霊水として崇拝の対象となっていたらしい。

それでは愈々天台寺へ登ってゆこう。

皐月の光は刺激的ながらもどこか柔和な曖昧さを含んでいる。

道に沿ってお地蔵様が並ぶ。境内の至る所で目にすることができるがこれについては後ほど説明しよう。

暫く登っていくと行く手に桜が見える。ちょうど見頃で枝振りも美しい。杉林の中にあって突如現れる薄桃色は旅人に一時の安堵をもたらす。

桜の木を過ぎてからは遠路をやってくる巡礼者を出迎えるかのように建造物が増える。

鹿の子模様の斜面に同化しているが小さな神社。注連縄が可愛らしい。

不動堂とある。若草色の苔は芽吹きの時期を迎える。

本来であれば石段の先に仁王門、そして本堂が見えるはずなのだが生憎修復作業中でその姿を想像するしかない。

振り返って見下ろせば追い越してきた人々の姿が見える。初夏には紫陽花が咲くらしくこの参道の両側は淡い紫で埋め尽くされるだろう。

石段を登り切ったが仁王門は潜れないので脇道へ。修験堂跡とあるが、このように往時の痕跡を留めるものが至る所にある。

こちらは修復中の仁王門。門の両側には仁王像が立っている。その体躯はお札で埋め尽くされていたらしい。 遂に頂上へ着いたのでガイドさんを伴って境内を巡る。

こちらは薬師堂。中に慈悲深そうな薬師如来像が安置されている。

顔に欠損が見られるのは明治の頃の廃仏毀釈の際、官吏に見つからないよう埋めたからである。しかしその傷がより一層仏像の持つ慈しみを際立たせているようにも思える。この仏像を拝みたいがためにはるばるやってくる人も多いそう。本来は本堂に安置されており、現在修復工事中であるためにこちらへ移動していた。

このお地蔵様についてもお話があり、戦後すぐ詐欺に遭い、境内の杉が伐採されてしまったときにその伐採された杉の本数だけ、お地蔵様をお作りしようと言って作られたそう。よく見ると切り株の上に鎮座するものも多い。


このような小さな祠がそこかしこにある。


暫く行くと姥杉のモニュメントがある。写真が青みがかっていて悲しいがこの姥杉は明治期の火災で焼失してしまったものを復元したものだ。根元には博打穴と呼ばれる洞があり、そこでは博徒が博打に興じていたという。焼失の原因は一般には落雷と言われているが実際には博打の残り火であるという話もあるらしい。


このように中は空洞となっている。この太さでも境内で二番目のものらしくかつての天台寺の杉の太さは計り知れない。木が切られる前は境内は鬱蒼としていて日中でも暗かったという。

こちらは毘沙門堂。

こちらが内部にある毘沙門天。かつては100体ほど居たらしいが廃仏毀釈により一体となってしまったらしい。凄まじい伝統に対する冒涜である。日本で廃仏毀釈の影響が大きかったのは興福寺と天台寺と言われているらしい。


コンクリートで作られた仏像もあり、これらは昭和の頃寄進されたものらしい。


神水の池。麓の小学生が蛙の卵を見にやってくるらしい。5月であったが蛙の鳴き声も僅かに聞こえた。

それでは月山神社まで登ってゆこう。気の遠くなりそうな階段だが程なくして着いた。


こちらが月山社。本来天台寺でない寺の管轄だったというが、そこの住職が余りにも信仰心がなく荒れ放題だったらしいので天台寺が引き取ったという。

ここにあるように平成3年に修復する前は文字通り社は倒壊していて一刻も早い再建が待たれたらしい。

続いて向かったのは長慶天皇御墓。

長慶天皇の伝説は至る所にあるのでありふれた存在だが天皇がこの地へやってきていたとしたら浪漫がある。宮内庁の定める御陵は京都にあるらしいが北東北にも数多くその墓とされるものがある。南部煎餅の由来も長慶天皇にまつわるものがある。八戸に上陸した天皇がお腹を空かせたとき、廷臣の赤松某が兜を使って焼いたのがその始まりという。その証拠に南部煎餅の両側には大楠公を示す菊水と赤松の家紋が象られているらしい。



小さなお堂を眺めつつ行く。このようなものが非常に多いのだ。
続いて文化財収蔵庫へと向かった。




二つ目の如来立像。二体の如来立像はどちらも桂材の一木造りで慈覚大師の作と伝わる。


こちらが国指定重要文化財の聖観音菩薩立像。いわゆる旧国宝といわれるものである。鉈彫りで容姿は流麗。行基の作とも言われ、その姿の美しさから評価が高くしばしば展覧会などで展示されるそう。これを御本尊とすることもあるらしい。




伝吉祥天立像。慈覚大師の作と伝わる可愛らしい仏像。




多聞天と広目天。この辺りでは四天王のうち二天をお祀りする風習があったのだろうか。


菩薩立像はここにあった仏像の中で唯一欅で作られている。もとは薬師堂にあったらしい。

運慶の作とも伝わる能面。表情の変化を楽しむ。

聖武天皇の宸筆をもとに作られた天台寺の扁額。

江戸時代からの修復の記録。南部藩の深い帰依を受けていたことが分かる。天台寺は檀家を持たず江戸時代を通して俸禄を受け取っていた。そして次第に加増されているのである。天台寺の名が使われるようになったのは南部行信公の頃からであるとされる。それ以前からも非常に重んじられ糠部三十三所のほか奥羽三十三所の詣り納めの霊場としても重んじられた。山号の八葉山というのはヤツデを表し、山がその形をしていることを意味する。


江戸の作の梵鐘。これを作った重信公は行信公の父で本堂を再建した方である。

例大祭の神輿行列にも使われる竜頭。神輿の主はひっそりと弔いをすることしかできなかった長慶天皇であるとも言われる。




この他多くのものが展示されている。普段は本堂にあるものもこちらに移転してきており所狭しと展示されている。


天台寺の紫陽花は有名で俳句の応募も行っているらしい。


江戸期の天台寺を目にしてみたいとこのような遺構が点在する事からも強く思うのである。




北白川宮成久親王御台臨記念とある。姥杉の跡地に植えられていた銀杏の木はこの宮様の発案によるものらしい。




お堂は全て撮ろうとしたわけだがあまりにも多く冗長になってしまった。

昼下がりの天台寺は工事も一段落し昼休みに入っている。けたたましく鳴り響いていた重機の音は止み、ボランティアの方々の明朗な笑い声が響く。

山上より浄法寺市街を眺める。暫く黄昏れて居たがったがクマンバチの来襲によりそれも果たせなかった。真っ青と思っていた空だったがいつしか遠くの山並みの辺りは白く染められていた。

昼になり、急に閑かになった山を下る。

八重桜が膨らみ始めている。下ではこの日は漆器を買い求める人で賑わっていた。秋でもないのに梢が黄ばんでる。

この世の憂いというべきものを感じながら二戸方面へ引き返すことにしたのだ。実際のところ体を動かしていれば寂しさに身をつまされることもないので先の表現は間違っているかもしれぬ。しかし高校における青春の虚しさは心を常に支配していた。どれほど強い好奇心と言えども虚しさには勝てぬ。一層のこと出家してしまったほうが楽ではないかとも思った。どれほどの時間を夢想に費やしあの人のことを考えてきただろう。実を言うとこの旅行にあの人も誘っていたのだ。もちろんこのような寺に来るつもりはない。奥中山高原や沼宮内で遊ぶつもりだった。ラベンダー畑であの子の笑顔を見たい。それが出すぎた欲望であったというのでもあろうか。
二戸まで引き返す道は比較的短く感じた。空はますます晴れ道路には粉塵が高く舞い上がっている。次なる目的地は鳥居観音堂だ。