橋本國彦は1904年に生まれ1949年に没した東京の作曲家だ。可憐な歌曲であるお菓子と娘などを除いてほとんど忘れ去られていたが近年のナクソスレーベルの活動、オーケストラニッポニカや新交響楽団といったアマオケの活動で徐々に復権しつつあるようだ。戦前の日本音楽界では大変重用されていたようで、また体制よりの作曲家であったとも言われている。

橋本國彦:交響曲第1番/交響組曲「天女と漁夫」沼尻竜典Naxos2002-09-01
今回私が聴いたアルバムは上記の沼尻竜典指揮、東京都交響楽団演奏のものである昨年の秋だっただろうか、ずっとナクソスの胡散臭い文句のせいで聴く気になれなかったのだが、ちょうど安かったので買ってみたのだった。2、3日後、家に帰ると例のごとく茶色い包装が机の上に乗っかってる。それほど興味をそそられるものでもなかったが買ってしまったものは仕方がない、聴いてみた。
片山杜秀の良く言えば博覧強記、悪く言えばしつこい(私は情報量が多いので好んでいるが)解説を読みながら音楽を流していたのだが、なるほど多少あか抜けないがいい曲かもしれない、と一聴して思った。もう一度聴かねばならないという衝動に襲われてもう一度CDをかけた。これはまさに一目惚れだった。
彼が青春を過ごした時代は大正であった。デモクラティックな思想が一般に流布されてその気風は庶民をも巻き込んだ。東京に住む彼はそれを吸収していった。しかしデモクラシーの理想、想定するものとはかなりの乖離が生じていた。確かに大正政変により桂総理は退陣し、山形有朋も大正天皇の摂政問題などを巡って失脚した。彼らの晩年は大変不遇だ。日露戦争の勝利により列強の仲間入りをし、軍事的な脅威もしばらくはなさそうだ。大正時代を通して選挙権は拡大し、政党政治の基礎も構築されていった。しかし軍閥は依然として存在し、平民宰相・原敬はその機能を最大限利用しつつ政友会の党勢を拡大したのではないか。立憲同志会についても政友会と同じように財界と結びついていた。汚職は多発し、政治家は国民の名を借りて様々な政策を実行する。第一国民は政治の主権者たることに慣れていなかった。選挙の時以外は政治に関与している感覚がわかない。かといって政治を行いたいかと言えばそんなことはない。政治より楽な稼業はこの世にあふれている。政策の責任なんて取りたくない。大正という時代は民主主義の幻想が次第に剥がされていった時代ではないのか。もしかしたらそれは昭和初期のことかもしれない。いずれにせよ民主主義への憧れは崩れつつあったのだ。
橋本國彦は自由主義者でありモダニストであったように思う。音楽は民族的性格に多くを依存するものではなく至って普遍的だ。海外留学の経験も持ち合わせていた。それと同時にある種の社会主義的思想を持っていたのではないか。彼の音楽は終生平明を貫いている。自由主義の中に潜む伝統の喪失感とアイデンティティーの欠乏は大きな反動として現れその一つが多様性の否定や自己の正当化に躍起となる誤った愛国心である。橋本が体制、さらに言うと大衆に寄り添ったのは自由主義の中で押し込められていた自己の存在に対する疑問が戦時下という異常な状態の中で沸き上がったからではなかろうか。彼に山田耕筰のような飽くなき権力欲があったようには思えない。
かなり長くなってしまったので次に続く。